興亜観音と伊丹家


  松井大将は、上海派遣軍総司令官の任務を果たされて凱旋帰国後(昭和13年3月)に、伊豆山の自邸(現東急ハーベストホテル)の庭園の片隅に祠を建てて 戦火に斃れた日支両軍兵士の菩提を弔うつもりでした。

  そのような時、鳴沢山一帯を有する地主の古島安治氏が礼拝山を松井大将に寄進されて、昭和十五年二月二十四日、興亜観音が建立されました。

  そうして松井大将は、毎朝夕伊豆山の自宅から興亜観音に行かれて戦没兵士の菩提を弔っておられました。

  ところが、その都度実際には眼に見える筈のない戦死した兵士の無残な姿が瞼に映るため、 自分の供養では兵士たちは成仏できない、専門の供養僧が必要だと覚られた。

  そこで、予て縁故のあった新潟県三条市にある法華宗総本山本成寺に赴かれ、相談なされた結果、 本成寺の執事を務め、何れ伊豆高原に所在する別格本山蓮着寺住職に赴任する予定であった伊丹忍礼は松井大将直々に拝命を受け、 興亜観音初代住職として赴任されました。

  忍礼師が興亜観音に初代住職として赴任された詳しい月日は判りませんが、昭和十五年の後半といわれています。

  以来親子、二代七十年余に亘り御霊を守っています。

寺務 伊丹靖明


このページのトップに戻る 興亜観音HPのトップに戻る